救いにいたる神の力、神の福音(喜ばしい神のおとずれ)Good News。信じる者に救いを得させる神の力について。
この文章は、使徒パウロの書いたローマ人への手紙を土台としています。この中でパウロは、人間の根本的な問題と、そこからの解放を述べています。この驚くべき不朽のメッセージを、どうぞ注意深く読み取ってください。そして、神の恵みと愛がいかにすばらしいものであるかを体験してほしいと願っています。

人間のすべての問題の根源的原因は、創造主なる神を神としてあがめ、感謝することなく、かえって創造主の代わりに造られたもの(被造物)を神としている(偶像崇拝)ことである。創造主なる神を神とせずに神でないものを神としているところに、人間のすべての問題の根本的原因がある。
その結果、ついに神はご自身の手を人間(アダム)から引いて、人間がしたいようにさせた。そのため、人間は自由を得たと錯覚した。ところが、神から離れた自由は本当は最も不自由であった。そのため、人間は「欲望」、「情欲」、「良くない思い」という罪に捕らわれるものとなった。
このため人間の性質は基本的に自己に傾くようになり、だれもが多かれ少なかれ自分のことを最優先させるようになった。これゆえに、だれもかれもが神の失望、神の悲しみ、神の怒りの下に生きるようになったのである。これは人間が自ら招いた結果である。
それゆえに、人間が神から離れていることが自由と思っていることが実は束縛であったという事実と、人間が神から離れて自分だけで十分生きていける自信があると思うことが実は重大な間違いであるということを痛切に知る必要がある。
ところが、自分は神を知っているし、神が求めていることも分かっている。そして、自分は神が求めているような生き方もしてきているし、他者のために誠実に生きていると自負している人々がいる。そういう人々は実はそういう自分もやはり基本的には神から離れているということに気づいていないという過ちを犯しているのである。
さらには、どうせ神は人間が何をしても結局は寛大に赦してくれるのだから、どのように生きようといいではないかと開き直っている人々もいる。神の寛容と忍耐とあわれみを逆手に取り、神の愛の中にあぐらをかいている人々である。道徳的感覚が鈍くなり、まちがった自由主義に陥っているのである。
いずれにしても、創造主なる神から離れて神以外のものを神にしてしまったため、すべての人間は自己に傾くという罪の中に入ってしまった。しかも、この状態はあり地獄のようなものであり、自分の力でここから出ることは絶対にできない。このことが人間の社会の根本的な問題である。
この人間の絶望的なジレンマに対して、神は人間が滅んでしまうことを望まず、時満ちて、神はあわれみと真実の御手を差し伸べた。それがイエス・キリストのご生涯を通して示されたのである。特にキリストの十字架の死によって、神は人間を罪の奴隷状態から解放し、神との親しい愛にあふれる関係を回復された。キリストの十字架の御犠牲によって、人間は赦された存在にされたのであった。だれでも、このキリストを信じ、受け入れることによって、神との愛にあふれる交わりの中にはいることができるように道を開いてくださった。
キリストを信じて受け入れるとは、キリストを通して神の愛といつくしみがわたしたちすべての人に示されたのだ、ということをそのまま信じ、そのことによって、この自分が神の愛の交わりの中に入られたということを信じることである。
キリストを信じるということをもう少し具体的に言うと、キリストの十字架と復活を信じるということである。キリストは私たちの罪と「とが」のために十字架についてあがなって(赦して)くださり、そして、死からよみがえられたお方である。キリストの十字架のみならず、復活をも信じることが不可欠である。
神のなさる業は私たち人間が心に思い浮かびもしないこと、想像だにしないことという性質がある。キリストの十字架と復活によって私たちが救われるということもそうである。だから信じがたいことではある。しかし、これが神の恵みの特質なのである。
これまでのところをまとめると、私たちの人生において究極的にはアダムに連なるか、キリストに連なるかという選択になる。アダムの罪(神から心が離れ、自分の道を歩むと主張したこと)の中に生き続けるか、それとも、キリストの従順(どこまでも神に従い、神を第一にして、神を何よりも優先させたこと)の中に生きることを選択するかどちらかだということである。
そういう訳で、キリストを信じるということは、キリストに連なるということである。キリストに連なるとは、キリストの十字架の死と復活のいのちが、信じる私たちのものとなるということである。つまり、キリストの死と共に、私たちの中の「古い自分」(神に背を向けていた自分)が死んで、キリストの復活の命と共に、私たちも新しい命の歩みを受けたということである。
このようにキリストの死と復活によって、神は私たちを古い自分から解放して、キリストにある新しい命を、信じる者に与えてくださった。しかし、その新しいキリストの命の中に生きていくためには、日々、私たちの身と心を神にささげて、自分を神に明け渡す必要がある。そうしないと、救われた者と言えども、再び利己的な自分が頭をもたげてくることになる。
ここでもし自分のために生きる人生を選択するならば、それがどういう意味なのかを確かめておこう。そのような人生は、自分でしたいと思う善い事が実はできなくて、自分でしたくない悪しきことを結果的にしてしまうという人生になる。これが神から離れて自分だけで生きていこうとするときに、自ら招いてしまう人生なのである。
イエス・キリストはその十字架の死と復活によって、私たちを罪の力から解放してくださったことを見てきた。しかし、キリストの救いとはそこで終わらない。復活のキリストは「御霊」を信じる人々に遣わしてくださっているのである。この御霊とは今も生きておられるキリストの霊である。この御霊が信じる人々を「神の子」である確信に導かれる。
信じる者にイエス・キリストの十字架と復活、そして、聖霊の臨在が与えられているのは、神がその人々をキリストの栄光の姿に似せて造りかえるという究極的目的をもっているからである。そのために、神はそのような人々の人生と生活を導いて、いかなることをもその目的に照らして益となるように導かれる。
だからキリストを信じている者は、いかなる状況の中にあっても、神の愛から引き離されることはない、ということの確信を持っている。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
ローマ人への手紙 8:28 · Romans 8:28
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福江 等