救いにいたる神の力 神の福音(喜ばしい神のおとずれ)Good News、 信じる者に救いを得させる神の力
(この資料は使徒パウロの書いたローマ人への手紙を土台としている。この中でパウロは人間の根本的問題とそれからの解放を述べている。この驚くべき不朽のメッセージを注意深く読み取って欲しい。 そして神の恵みと愛がいかにすばらしいものであるか体験してほしい。)
1.人間のすべての問題の根源的原因は、創造主なる神を神としてあがめ、感謝することなく、かえって創造主の代わりに造られたもの(被造物)を神と している(偶像崇拝)ことである。創造主なる神を神とせずに神でないものを神としているところに、人間のすべての問題の根本的原因がある。
- このことは聖書の創世記にある最初の人間アダムが犯した間違いに始まっている。アダム以来すべての人がこの状態に陥っている。
- 偶像崇拝ということで何かの像を拝むことだけを想像してはいけない。お金も異性も人間もイデオロギーも思想も趣味も成功も幸福も学歴も地位も、有 形無形のどんなものでも偶像になりうる。「健康」でさえ偶像になりうる。すべての人が持っている偶像とは『自分』という偶像である。この世で『自分』ほど 大事なものはないという思いが自分を偶像化しているのである。『自己実現』したいという思いが偶像崇拝なのであ。本当は人間は『神実現』をするために造ら れた存在なのである。創造主なる神の御姿をこの地上にあって映し出すことが人間の存在の意味なのである。それを忘れ、神以外のものを神以上に重要視するこ とを偶像崇拝と言う。
2.その結果、ついに神はご自身の手を人間(アダム)から引いて、人間がしたいようにさせた。そのため、人間は自由を得たと錯覚した。ところが、神 から離なれた自由は本当は最も不自由であった。そのため、人間は「欲望」、「情欲」、「良くない思い」という罪に捕らわれるものとなった。
- 人間が人間である限り、いつの時代の人間も世界のどこに住んでいる人間も、多かれ少なかれ、これらに束縛されて生きている。
- この部分も最初の人間アダムが神から離れて自由を得たと錯覚したことから始まったもの(創世記)。
- 人間の世界的な歴史から学ぶならば、人間が神から離なれて人間の自由と可能性を謳歌したルネッサンスの時代がついには世界大戦を二度もしてしまう結果になったというのはこのことを歴史的に証しするものであろう。
3. このため人間の性質は基本的に自己に傾くようになり、だれもが多かれ少なかれ自分のことを最優先させるようになった。これゆえに、だれもかれもが神の失望、神の悲しみ、神の怒りの下に生きるようになったのである。これは人間が自ら招いた結果である。
- この事は人間が普遍的に共通する性質であるため、人種や、肌の色や、教育や出身や家柄や、社会的地位や外見で、だれも他者を差別することはできないということにつながる。神の前に立つとき、道徳的に誰が上で誰が下かという区別は無意味になる。
- 社会に裁判官制度が設けられ、社会的罪を犯した人を裁判官が裁く立場にあるのは、社会の秩序を保つために便宜上人間が設けた制度であって、神の前に立つ人間として裁判官が人を裁くことはできない。裁判官自身が実際は裁かれる人よりも神の目には悪いかもしれないのだから。
- このことは人の外見と実態がどうかという問題でもある。神の前に重要なことは実態であって、外見ではない。つまり、すべてを見通しの神の前にどう 生きているかが最終的には唯一大事なことである。外見上が宗教的であるとか、信仰的であるとか、道徳的であるとか上品であるとかは神にとっては重要なこと ではない。最終的には神は人が実際どのように生きたかの責任だけを問われる。
- 神は人間をしたいままにさせているが、人間は本来神によって創造された存在であるから、基本的に何が善で何が悪であるかをわきまえている。うそを つくこと、人を殺すこと、姦淫を犯すことなどが悪であること、人に親切にすること、正直であることが善い事であることなどを知っている。それゆえに、神は 個々の人間がどのように生きるかに対して責任を求めている。
4.それゆえに、人間が神から離れていることが自由と思っていることが実は束縛であったという事実と、人間が神から離れて自分だけで十分生きていける自信があると思うことが実は重大な間違いであるということを痛切に知る必要がある。
- 人間がいかに自助努力で自らを向上させようとも、他者との比較の中において優れた人になりうるかもしれないが、神の前においてはまったく自己中心 という罪に捕らわれている自分であることに気がつかなければ、次の救いへの道に入っていくことができない。このことが明確でなければ、福音の本当の意味を 知ることができなくなる。そのためには一切のみせかけを振り捨てる必要がある。外見的に自分の心を善く見せようという試みが神にとっては偽善であることを 知る必要がある。神から離なれた自信がいかにもろく崩れやすいものであるかを痛感する必要がある。
5・ ところが、自分は神を知っているし、神が求めていることも分かっている。そして、自分は神が求めているような生き方もしてきているし、他者の ために誠実に生きていると自負している人々がいる。そういう人々は実はそういう自分もやはり基本的には神から離れているということに気づいていないという 過ちを犯しているのである。
- これはイエス・キリストの放蕩息子のたとえ話の中に出てくる兄のような場合である。自分は弟のように父親の財産を湯水のように使って遊びほうけ て、困り果てて家に帰ってきて父親に泣きすがるような人間ではない。自分は常に父親のためにまじめに生きてきている。と自負しているタイプの人間である。 人に後ろ指を指されるようなことは何一つしていないという自信を持っている人々である。このタイプの人々の落とし穴は、実は自分もまた本当は自己中心的な 人間であり、他者をさばきながら生きている者であるということが分かっていないということである。このタイプは放蕩息子タイプの人より神の恵みが一層分か りにくいという性質を持っている。なぜなら、自分はまじめに品行方正に生きてきているという自信があるから、よけいに神の恵みが分かりにくくなっているの である。
- 具体的にはパウロはこのローマ人への手紙の中で当時の宗教に熱心であったユダヤ人を想定している。自分は信仰篤く、宗教的きまりを落ちどころなく 守っている。他者に対してもあわれみの心を持っていると考えている人々である。ところが、このタイプの人々は自分の罪がよけいに分かりにくくなっていると いうことに気がつかなければならない。パウロ自身もキリストの救いに与る前までは自分は神のために生きていると信じて疑わなかったのである。宗教者である とないとにかかわらず、自分はまじめに生きているし、自分は恥ずべき事はなにもないという自信に満ちている人は、かえって自分が見えてない状態に陥ってい ると言わざるをえない。それゆえに神の恵みに対して盲目の状態にあると言わざるを得ない。
- このような盲目の自信がまず打ち砕かれなければならない。そうして神の恵みがはじめて分かってくる。神の恵みが分かってはじめて自分の錯覚していた自信が見えてくると言ってもよい。これは同時に起こる場合が多い。
6. さらには、どうせ神は人間が何をしても結局は寛大に赦してくれるのだから、どのように生きようといいではないかと開き直っている人々もいる。神の寛容と忍 耐とあわれみを逆手に取り、神の愛の中にあぐらをかいている人々である。道徳的感覚が鈍くなり、まちがった自由主義に陥っているのである。
- 神の愛とあわれみに慣れてしまっている人々の中にこういう人がいる。生まれながらにして神の愛について聞く機会が沢山あった人や、周りに神を信じ ている人々が多くいる環境の中で育った人の中に、このように神の愛を当然のことのように考えて、自分の心を深く掘り下げる必要を感じなくなっている人々が 見られる。そういう人々は神が与える自由をはきちがえているのである。
7. いずれにしても、創造主なる神から離なれて神以外のものを神にしてしまったため、すべての人間は自己に傾くという罪の中に入ってしまった。しかも、この状 態はあり地獄のようなものであり、自分の力でここから出ることは絶対にできない。このことが人間の社会の根本的な問題である。
- 法律を設け、社会の規範を作り、共同生活のルールを作って人間のエゴと戦っているが、それらは根本的な解決とはならない。なぜなら、それらは外から人間を変えようとしているから。人間の内側から変わらなければ本当の解決とならない。
- 8. この人間の絶望的なジレンマに対して、神は人間が滅んでしまうことを望まず、時満ちて、神はあわれみと真実の御手を差し伸べた。それがイエス・キリストの ご生涯を通して示されたのである。特にキリストの十字架の死によって、神は人間を罪の奴隷状態から解放し、神との親しい愛にあふれる関係を回復された。キ リストの十字架の御犠牲によって、人間は赦された存在にされたのであった。だれでも、このキリストを信じ、受け入れることによって、神との愛にあふれる交 わりの中にはいることができるように道を開いてくださった。
- キリストが神の変わらざる恵みと真実をはっきりと示してくれたのであった。特にその十字架上の御苦しみによって、神が人間を赦したもうお方であることを人類に告知されたのである。
- このキリストを自分の主として受け入れること、信じること、そのことが、神を本来の神として崇めることになったのである。そうして、自己の偶像崇 拝から解放されるのである。そして、神との親しい愛にあふれる交わりの中で生きることによって、人は内面から解放されて、変えられていくのである。初めて 生きる上での確かな希望を見出すのである。そして、神の愛と真実と力をいただいて生きることが可能になってくるのである。
- この自分からの解放の鍵は『キリスト』にある。キリストが神と人とを結び付けてくださる仲介者なのである。
- 『信仰』とは、神をぬきにした人生では自分をダメにしてしまうということを率直に認め、キリストとを『私の主』、『私の神』として信じ、信頼することである。これは誰にでもできることであり、すべての人に開かれている救いへの道である。
- 9.キリストを信じて受け入れるとは、キリストを通して神の愛といつくしみがわたしたちすべての人に示されたのだ、ということをそのまま信じ、そのことによって、この自分が神の愛の交わりの中に入られたということを信じることである。
- 神の無条件、無限の愛を私たちの頭で理解しようとすることは当然不可能である。それは理解するよりも、信じるべきことである。その信仰を神は尊び、私たちを神との親しい、恵みあふれる交わりの中に入れてくださるのである。
- 『行い』ではなく、『信仰』によって、救われるのである。『行い』では救われることができないのは、『行い』で救われようとする姿勢には人間のプ ライドが必ずついてまわり、結局は神から離れる結果になるからである。『行い』にはどうしても、自分の力、自分の努力、自分の誠実さ、というように、常に 自分が主になるからである。そのために、『行い』を良くすることによっては救われないというのは、『行い』によっては自分の高ぶりやプライド、自己中心か ら根本的に解放されることができないからである。
- 『信仰』によってのみ、はじめて神の恵みに感謝することができるようになり、神の御前に心が砕けるようになり、自信や、プライドや、誇りや高ぶりが神の力によって打ち砕かれるのである。『信仰』によってのみ、神は私たちの心の中で生きて働くことができるからである。
- 『行い』がどうでもよいという意味ではなく、私たちを捕らえている罪(神から離れた結果生じた人間の神を悲しませる思いと行為)から先ず解放され なければ、私たちの『行い』は私たちを神に結びつけることはできない。本当に意味で神に喜ばれる『行い』は『信仰』から生まれる。信仰によって神との親し い交わりの中に生き始めることによって、神が喜ばれる『行い』が出始めるのである。『信仰』から『行い』が生まれるのであって、『行い』から『信仰』が生 まれるのではない。だから、私たちが「ありのままで」、「あるがままで」神の差し伸ばされた手を感謝して握り返すことが信仰なのである。そこから神のみ業 が始まるのである。
10.キリストを信じるということをもう少し具体的に言うと、キリストの十字架と復活を信じるということである。キリストは私たちの罪と「とが」の ために十字架についてあがなって(赦して)くださり、そして、死からよみがえられたお方である。キリストの十字架のみならず、復活をも信じることが不可欠 である。
- このことはキリストが死せる英雄ではなくて、生ける主であるということを表している。キリストが死から復活されたということを信じがたいと思われ るのは当然である。人間的に考えて理解できる範囲を超えているからである。しかし、全能の神には「死からいのち」を呼び出だし、「無から有」を呼び出だす ことができるという信仰が聖書の信仰である。
- ちょうど旧約聖書の中に出てくる、アブラハムとサラの夫婦に起きた出来事にヒントを得ることができる。この夫婦に神様が子供を約束したが、この夫 婦はもう子供を生める年齢をはるかに超えていた。しかし、人間的に不可能だと思っても、神のことばであるならば、神が神の方法と時に実現に至らせてくださ るということを信じたアブラハムの信仰を神は喜んでくださった。それで、アブラハムは「神の友」と呼ばれることとなった。
- 事実、時満ちてアブラハムの夫妻に神は子供をお与えになった。
- アブラハムが頭では理解できなくとも、神のことばと約束であるから心で信じたという、その信仰の姿勢が神に喜ばれたのであった。
- 私たちも、キリストの十字架と復活ということが頭で理解できなくとも、心で信じることが重要である。そのとき、神はその信仰を喜んでくださり、私たちと恵みあふれる親しい関係を神は作り上げてくださるのである。
- そして、そのような信仰に立つ人々を通して神はこの世で働かれるのである。そのような人々を通して、神のすばらしい恵みのわざが行われるのである。神の栄光がそのような信仰の人を通して現れるのである。
- また、そのような信仰をはっきりと持っている人は、どのような苦難にも負けることなく、どのような環境にあっても、必ず目を出し、花を咲かせるこ とのできる人々である。そのような人は「竹」のように、弱そうで強く、折れそうで折れない人である。そのような人が本当に強い人である。
- そのような人は、神が道なき所に道を作りたもうお方であることを知っている人でもある。だから、どんなに苦しい状況にあっても、キリストの十字架と復活を信じている人は、希望を失うことが無いのである。
11. 神のなさる業は私たち人間が心に思い浮かびもしないこと、想像だにしないことという性質がある。キリストの十字架と復活によって私たちが救われるということもそうである。だから信じがたいことではある。しかし、これが神の恵みの特質なのである。
- キリストが十字架にかかり、復活されたことが私の救いのためであったと言われても、それは私のあずかり知らないことである。勝手にしておいて、そ れがこの私のためであったと言われても困る、という気持ちになっている人もいるかもしれない。しかし、それが神の取られた方法であったのである。それ以外 に人間が神の愛と真実を知る方法がないと神はお考えになったのである。キリストの十字架と復活という方法以外に人間を罪の力から解放する道はないと判断さ れたのである。
- 神学的に言うと、これは「神の先行する恵み」という言葉を使う。神の恵みは常に私たちの考えや行動よりも先にあるということである。人間が必要と思ってキ リストに十字架に架かってもらったわけではない。人間が気がつくと、すでにキリストが十字架にかかってくれていたのである。復活も同様である。私たち人間 がまだ神のことも、神から心が離れて自分に傾いていることが人間の本当に問題であるということも気がついていない時に、神はすでにそのような方法で救いへ の道を切り開いてくださっていたのである。
- それゆえに、私たちが信じるときに、神の恵みと愛とが『今』現在、私たちの心に注がれてくる。それが聖霊の働きである。現実のこととして信仰を通 して神の愛を体験することができるのである。その神の愛の真実は決して変わることがなく、絶えることもないため、信仰者はどんな困難な状況に立たされて も、希望を失うことがない。困難があればあるほど、神の愛の現実が力強く迫ってくるのであるから。
12.これまでのところをまとめると、私たちの人生において究極的にはアダムに連なるか、キリストに連なるかという選択になる。アダムの罪(神から 心が離れ、自分の道を歩むと主張したこと)の中に生き続けるか、それとも、キリストの従順(どこまで神に従い、神を第一にして、神を何よりも優先させたこ と)の中に生きることを選択するかどちらかだということである。
- 罪とは、自分の関心事を神の関心事よりも優先させたということである。このことが人間の心を毒し、人間の社会から平和と調和を奪う原因となった。そして、このアダムの罪は後のすべての人間が多かれ少なかれ同じように見習っていったものである。
- アダムに連なるか、キリストに連なるか、ということをもう少し厳密に言うと、アダムの世界に留まり続けるか、それとも信仰をもってキリストにつな がるようになるか、ということである。つまり、キリストにつながらない限り、アダムの世界に留まるしか選択は残されていないということである。生まれなが らにして私たちはアダムの辿った道に生きていくしか他に方法がないわけである。
- しかし、神はキリストをこの世にお遣わしになることによって、アダムとはまったく反対の道に生きることを可能にしてくださった。キリストは神を第 一とし、隣人を自らのごとく愛することを通して、さらにはその十字架の死と復活によって、神の恵みと光が注がれる人生を切り開いてくださった。アダムに連 なる人生は罪と闇と絶望と死の人生であるが、キリストに連なる人生は恵みと光と希望といのちの人生である。
- キリストを通して私たちの人生が全く新しく造りかえられることが可能になったのである。それは、古いアダムに連なる人生から、新しくキリストに連 なる人生へと移行することが可能となったのである。古いアダムに連なる人類の一員であることから、キリストを信じることによって新しい人類の一員として生 きることが可能になったのである。
13.そういう訳で、キリストを信じるということは、キリストに連なるということである。キリストに連なるとは、キリストの十字架の死と復活のいの ちが、信じる私たちのものとなるということである。つまり、キリストの死と共に、私たちの中の「古い自分」(神に背を向けていた自分)が死んで、キリスト の復活の命と共に、私たちも新しい命の歩みを受けたということである。
- キリストを信じるとは、イエス様にお願いをして
- 助けてもらうという「いわしの頭も信心から」というようなことではない。キリストを信じるとは、キリストの十字架の犠牲によって、私たちの罪とがが すべて神にゆるされ、神の子供として受け入れられ、神と親しい関係の中に生きていけるということである。しかし、それだけではない。
- キリストを信じるとは、私たちの心の中にあった、どうしても神に背を向けてしまう「古い自分」、神を信じようとしないで、自分の力に頼って生きよ うとする生まれつきの自分が、キリストの死と共に葬られ、もはや「古い自分」が私を支配する力が無くなったことを意味している。つまり、神無しの人生を生 きるという古い自分は死んだということである。
- そればかりか、キリストを信じるとは、キリストの復活と共に、私たちの心と人格の中に新しいキリストのいのちが生き始めたということである。かつてはアダムの性質が支配していた自分の心にキリストが入ってくださったということである。
- このような神秘的なことは信じられないと言うかもしれないが、キリスト信仰とは、私たちのうわべだけを少し変えるだけの信仰ではないということである。私たちの心と人格の中心を根本的に変えるのがキリストを通して働かれる神の救いのご計画である。
- だから、信じがたいことかもしれないが、キリストの十字架の死と共に自らの「古い人」は死んで葬られ、キリストの復活の命と共に、自らの心と人格 の中に復活のキリストの命が生き始めたということを信じること、これがキリスト信仰である。信じがたいことであっても、断固として信じることである。
14.このようにキリストの死と復活によって、神は私たちを古い自分から解放して、キリストにある新しい命を、信じる者に与えてくださった。しか し、その新しいキリストの命の中に生きていくためには、日々、私たちの身と心を神にささげて、自分を神に明け渡す必要がある。そうしないと、救われた者と 言えども、再び利己的な自分が頭をもたげてくることになる。
- 放っておくと雑草が茂り、せっかくの良い木の実が得られなくなる自然界と同じように、人間の心も絶えず手入れをして、心の雑草を取り除かなければ ならない。そうしないと、せっかくキリストを信じ、洗礼を受け、新しいキリストの復活のいのちをいただいた者であっても、また古い自分(利己的な自分)が 活動をし始める。
- そのような心の雑草を取り除くためには、日々、神に自分の身と心をささげて、神に自由に用いていただくように自分を明け渡すことである。「神様、 今日もこの私をあなたのために用いてください。私のすべてをあなたに明け渡します。」と日々祈ることである。そのようにすることで、心を雑草を取り除いて いくことができる。
- イエス・キリストはある時、「実りは多いが、働き人が少ない」と言われました。神の国のためにはすることが沢山あります。しかし、神のために自分 を明け渡している人が少ないのです。クリスチャンであっても、本当に自分を神のために明け渡している人は僅かなのです。ですから、もし、自分を神に本気で ささげるなら、どれほど神がそれを喜んでくださることでしょうか。
- 結局は人の人生には二つの選択しかないのです。神に自分を明け渡して、神の国のために自分を用いていただくことを望むか、それとも、自分のために 生きることを選択するかのどちらかなのです。そして、その決断によって結果もおのずと定まってくるのです。前者を選ぶ人には、心の清さと永遠のいのちへと つながる人生が待っています。後者を選ぶ人には、最終的には人生のむなしさと無意味さしか残らないようになるのです。
- ですから、人生のどこかで、神に自分を心から明け渡し、「どうか、神様、あなたの決めておられるように私を生かしてください」と祈ることがとても重要なことなのです。
15. ここでもし自分のために生きる人生を選択するならば、それがどういう意味なのかを確かめておこう。そのような人生は、自分でしたいと思う善 い事が実はできなくて、自分でしたくない悪しきことを結果的にしてしまうという人生になる。これが神から離れて自分だけで生きていこうとするときに、自ら 招いてしまう人生なのである。
- これが実は「罪のからくり」である。創造主なる
- 神を離れて自分の力や努力だけで善い人間になろうとすると、結果的にはその自分の望みとは裏腹に返って自分の欲しない人間になってしまうのである。 例えば思いやりのある人間になろうと努力すればするほど、自分の中に人のことを思いやりたくない思いが強く働くのである。また、謙遜な人間になろうと努力 すればするほど、結果的に謙遜とは程遠い人間になってしまうのである。これが『罪のからくり』である。
- このことは、イエス・キリストが新約聖書の福音書の中で、当時の宗教に熱心な人々が実際は神から最も遠いところにいる人々であることを指摘したこ とでもあきらかである。自分は信仰深いと思っている人が実は神から一番遠いところにあり、自分は罪深い人間であるという自覚を持っている人が実は神に一番 近いところにいるということをキリストは指摘された。
- このローマ人への手紙を書いたパウロも、キリストに出会うまでは、自分は神に熱心に仕えている者であることを少しも疑っていなかった。ところが、 キリストに出会ったときに、彼は自分が実は神を深く悲しませる行為をしていたことに気づかされたのである。この時に「罪のからくり」に気がついたのであ る。
- 罪というのは、重力の法則のようなものであり、私たちがいかに自分の努力で善いことをしょうとしても、神から離れたままであるならば、必ずその努 力が下に落ちるのである。つまり、実を結べないのである。なぜなら、キリストによって新しくされないままであれば、私たちは利己的な自分から解放されえな いからである。利己的な思いや力が心の奥底にひそんだままでは、なにをしても神に喜んでいただくことはできないのである。
- その心の奥底にある利己的思いを罪と呼んでいて、その罪の法則から私たちを解放してくれるのが、イエス・キリストなのである。
16.イエス・キリストはその十字架の死と復活によって、私たちを罪の力から解放してくださったことを見てきた。しかし、キリストの救いとはそこで 終わらない。復活のキリストは「御霊」を信じる人々に遣わしてくださっているのである。この御霊とは今も生きておられるキリストの霊である。この御霊が信 じる人々を「神の子」である確信に導かれる。
- この御霊は「聖霊」とも呼ばれている。聖霊はキリストを信じる人々を導かれる復活のキリストご自身のことである。この聖霊がキリストを信じる人々 にキリストの十字架と復活の意味を教えてくれる。そして、キリストを信じる力を与えてくれる。この聖霊とは信じる者の人生と生活の同伴者なのである。
- この聖霊が私たち人間を悩ませる本質的問題である神から離れて自分の知恵と力だけで生きようとする思いを打ち破ってくれるのである。そして、私たちの心を創造主なる神に向けてくれる。
- そればかりか、この聖霊が私たちが「神の子ども」であるという確信を与えてくれるのである。他でもないこの自分が神に愛されているということを、 まぎれもない事実として示してくれるのがこの聖霊なのである。父なる神が「あなたは私の愛する、私の子である」というみ声を聞かせてくれ、また、私たちが 神に対して「天の父よ」と言って祈るものにしてくれるのである。ここに至って人は真の人間に回復するのである。
- 人が本当に「心のやすらぎ」を得、「心の平安」を見出すのは、創造主なる神様とこのような親と子の親しい関係になる時である。もはや、自分は神に 愛されているのだろうか、神に祝福されているのだろうかと疑心暗鬼にある必要が全く無くなったのである。このことが私たちの人生と生活に与える意味の大き さを想像できるだろうか。また、このことを知らずに人生を生きていこうとすることがいかに無謀なことであるか心を落ち着けて熟慮したいものである。
- そういう訳で、イエス・キリストを信じる人は、この聖霊に自らの心を日々明け渡していくことが肝心である。キリストによって過去のすべてを赦して いただいた自分の心を、生けるキリストの霊であるこの聖霊に明け渡して、感謝と共に献身をすることである。そうすれば、聖霊は日々、私たちの生活を導いて くださる。人生の最も信頼できる同伴者として、傍らで支え励まし、慰め導き、教えてくれるのである。
17.信じる者にイエス・キリストの十字架と復活、そして、聖霊の臨在が与えられているのは、神がその人々をキリストの栄光の姿に似せて造りかえる という究極的目的をもっているからである。そのために、神はそのような人々の人生と生活を導いて、いかなることをもその目的に照らして益となるように導か れる。
- 神の救いの究極的目的は、私たちをキリストの御姿に似せて栄光の姿に造り上げることである。それは、キリストの愛と聖さにおいてキリストのごとくになるということである。
- そのために、神はあえて信じる人々をこの世における人生で様々な経験をさせて、その大きな目標に向かって導いておられる。人にうらぎられたり、だ まされたり、利用されたり、病気になったり、事故に遭遇したり、心配でたまらない経験をしたり、経済的困窮や、悲しいことつらい事を色々と経験させられ る。しかし、こういった経験のすべてを神は益になるように導かれるのである。私たちの人生の完成図にはなくてならない経験として用いられるのである。
- だから、キリストを信じる人々にとって、人生の試練や苦難は失望に終わらず、むしろ、ますます、キリストの御姿に似せて造り替えてくださる神の恵 みの導きの中で受け止められるのである。それゆえに、キリスト者はいかなる心の痛手の中でも希望を失うことがないのである。前向きに生きてゆくことができ るのである。
18.だからキリストを信じている者は、いかなる状況の中にあっても、神の愛から引き離されることはない、ということ確信を持っている。
- キリスト者は人生の災難に遭遇することを神に祝福されていない証拠とは考えない。一般には不幸なことは天の罰であるとか、神の怒りであるとか、天ののろいであるとか、悪い星の下に生まれたとか考えるけれども、キリスト者はそのようには受け止めない。
- なぜなら、私たちのために御一人子イエスを十字架に明け渡すほどの愛をもっておられる父なる神様が、どうして私たち信じる人々を見離したり、見捨 てたりできましょうか。神の愛はそのような移り気なものではない。神の愛は永遠に変わることのない性質のものである。だから、キリストにあって父なる神に 信仰によって結びついている人々を、神は決して絶望の中に捨て置くことはしないのである。精神的孤児にはしないのである。
- この世で生きる上では、病気になることもあるし、自分の責任でないにもかかわらず精神的、身体的苦痛を受けるということもある。なぜか、と問うて も満足のいく答えを誰も与えられないこともしばしばある。しかし、キリストを信じる者にとっては、いかなることが起ころうとも、キリストの十字架と復活を 信じているがゆえに、そういった苦難を乗り越えるばかりか、むしろ感謝が出てくるのである。ここに、信じる者の不思議な「勝ち得てあまりある」世界が展開 されるのである。